AIが日常に深く入り、情報収集の多くがチャットで完結するようになりました。
わからないことがあれば検索するのではなく、AIにそのまま投げる。
たったそれだけで、瞬時にまとまった答えを生成
私たちの疑問に簡潔明瞭に答えをくれます。
これはとても便利なことですし、私自身も日々活用するようになっています。
けれど、その便利さの中で、ふと思う瞬間がありました。
「誰が書いたかなんて、もはやどうでもよくなっていないか?」
最近、調べものをしても情報はわかるのだけど、なんだか無機質。
「心に残らない」と感じることが増えました。
それは、教科書のように整った答えを受け取っているからかもしれません。
そこには、書き手の価値観や、癖や、迷いや、喜びといった“体温”が宿っていないのです。
そして、それは同時に、ネットの世界から「人間味」というかけがえのないものが薄れているということでもあると感じました。
自分がかつて楽しんでいた、「人の熱を感じることができる文章」を残しておきたい。
だから私は、もう一度ブログを書き始めることにしました。
もくじ
AIが情報を埋め尽くすほど「個人の声」は希少になる
AIは、無数の情報ソースから平均的で最適な答えを用意してくれます。
それはとても強いですし、ツールとしても有用です。
でも、だからこそ「平均からこぼれたもの」こそが、価値をもつようになるとも思うわけです。
- うまく言語化できなかった感情
- 誰かに伝えたい小さな気づき
- その人にしかない視点、習慣、生活の匂い
- 言い間違え、迷い、試行錯誤の痕跡
こういった些細なところは「生身の書き手」からしか生まれません。
効率化の波が大きくなればなるほど、
個人の揺らぎや癖は、むしろ“希少性”として際立つようになる。
それはつまり、ブログの価値が改めて見直されるタイミングだと感じるのです。
ブログは「一緒に歩く場所」にもなれる
SNSはタイムラインで流れていきます。
X(Twitter)も、Instagramも、その他SNSも、流れていく速度がとても速いです。
いま思ったことをすぐ投げる場としては最適ですが、「積み重なる場所」ではありません。
対してブログは “時間を置いても戻ってこれる場所” です。
書き手が時間をかけて変化していく様子、試行錯誤等を、読み手もまた一緒にたどれる。
試行錯誤した痕跡や葛藤、後悔や喜び…
数ヶ月前、数年前の自分にも振り返って出会うことが容易です。
言葉を紡げば紡ぐほどに、そこには“個人の軌跡”が積み重なっていくのです。
私はブログのそういった感覚が大好きでした。
そして、またその感覚に触れたくなったのです。
誰かの役に立つことより、“誰かの心に残ること”をめざしたい
AIに聞けば正しいっぽい答えはすぐに出てきます。
だから、ただ役立つだけの情報なら、もうわざわざ私が書く必要はありません。
私が書くのは、1人の人間としてもっと素朴でシンプルな感情です。
- こう思った
- こう感じた
- こう選んだ
- こう迷った
- こう笑った
効率や、最適解や、正しさからは、少し遠回りになるかもしれません(もちろん嘘や思ってもないことは書かないです…)
それよりも、
「ああ、なんかわかる」
「同じような考えの人がいた」
と、誰かの中に小さな共鳴が生まれるような文章が書けたらなと思っています。
人は、心が動かされたり共感したことは忘れません。
それは、答えよりも、物語に近いものだからです。
ブログは「生きた物語のようなもの」
大げさかもしれませんが、私はそう思っています。
私が見ている景色を、私が感じた温度で、私の言葉で残せる場所。
そのような場所がこれからさらに希少になっていくのなら、なおさら大切にこのブログを守りたいと思いました。
そしてもし、この文章を読んでいるあなたが、
「また楽しみにしてるよ」と思ってくれたなら、
それは、このブログを続ける大きな理由になります。
■ 最後に
AIは脅威ではなくて、ただの“道具”にすぎません。
便利で賢くて、頼りになる存在です。
けれど、血の通った「人間の言葉」は人間にしか書けません。
文章から得られる価値は整然とした答えだけであるはずがない。
だから私は、また書いていくことにしました。
もしよかったら、これからもときどきこのブログを訪れてもらえると嬉しいです。
あとがき
ブログの更新を止めてからというもの、意図せず縦長の写真ばかり撮るようになってました(-.-;)
ブログやるなら横で撮っておかなきゃダメですね…笑







コメントを残す